それでも子牛の死亡事故ゼロを目指したい。

2016年10月30日の朝。
産室の中で羊膜をかぶったままの子牛が冷たくなって死んでいた。

予定日までは順調。産歴もある親牛だったので安心していたが結果は死産。死んででてきたのか、出てから死んだのかはわからない。
やるせない気持ちだけは覚えている。

流産死産、先天的な異常、下痢や肺炎、物理的な事故など、様々原因で子牛は死亡する。
一般的に年間5%の事故率であれば優秀で、平均すると1割の事故があると言われる和牛繁殖。実は僕は7年前に事故率30%という状況に陥ったことがある。当時の僕はこのことをブログに書いたこともあって、「あそこの牛は危険だ」と何年も言われる結果を自分で招いた。

事故と風評とでギリギリの経営の中、「人よりも高い牛を作って浮上したい。。。」という気持ちは非常に強かった。
でもその気持ち以上に、事故ゼロの牧場を作りたいという気持ちが圧倒的に大きかった。

そもそも『決して死なせない』なんてことは僕の力量を超えている。
そんなものは神の世界で、僕は我が子や自分の命ですらコントロールできない。
それでも偶然も味方につけながら「強い子牛」を生産できるように意識はしてきた。
(ブログ【大きい子牛よりも強い子牛。子牛の能力は母牛の管理から。】)

そして2016年10月30日から今日まで、1年7ヶ月間流産死産を含む子牛の事故ゼロを継続してきた。

でもやっぱり難しい。1年7ヶ月ぶりの事故はまたも死産だった。
今回のブログ記事は誰かの役に立つものではない。
僕の備忘録だ。

備忘録、5.6の死産

5月28日が分娩予定日の育成牛。4月の上旬からエサを食う量が減ってきた。育成は分娩前に餌食いが落ちることがよくある。
「でも、それにしては早すぎるな。。。」
そう思っていた矢先。
4/14、餌食いがピタッと止まった。
直腸検査で脂肪壊死は見つからないものの糞の臭いから脂肪壊死の疑いが大きいと判断。
食滞と脂肪壊死の治療を同時並行で行うことにする。

育成は産むまで繋ぎたくなかったんだけど、スペースの関係で2ヶ月前に繋ぎ牛舎に移動。少しブラッシングをした。

4/15、出なかった糞が少ないながらも出るように!!「ただの食滞だったのかも。。。」かなり安心した。念のため脂肪壊死の治療だけは継続することにした。

4/19、再び餌の食いが止まるので診療してもらう。熱が少しある。食滞と合わせて風邪の治療もお願いした。家に帰ろうとした頃に牛がバタバタと暴れ出す。抗生物質でのアレルギー反応だ。
但馬牛は他の黒毛和種では反応が出ない組み合わせでもアレルギーが出ることが多い。
閉鎖育種によって血が濃くなりすぎた弊害がここにも出ているのかもしれない。失禁するほどの腹痛。しかし妊娠しているためデキサは打てない。他の消炎剤を打ってもらい少しだけ落ち着いた。これ以上できることは今なはい。

翌日抗生物質を変えて治療するが、同じようにアレルギーで腹痛を起こす。
胎児優先で治療は中断。

4/27、分娩まで1ヶ月。この時点で餌を再び食べなくなる。「おかしい、やっぱり脂肪壊死がどこかにあるのでは。。。」そう思いながら「最悪子牛だけは助けられそうだ。。」という思いもあった。食べなくても点滴で凌げる。せめてあと2週間もってくれれば分娩はできる。

5/5、陰部から出血。分娩予定日23日前。まだ早すぎる。異常事態だ。出すしかない。
しかし陰部から出ているのは黒く濁った血。胎盤剥離なら鮮血だ。この時点で胎児はダメだと思った。獣医師を呼んで確認してもらう。

5/6、確認の結果やはり胎児は死んでいるとのことだった。産道を開く注射を打ってもらい自然に娩出されるのを待つことにした。今引っ張ると母体を痛めてしまう。

陣痛から10時間経っても生まない。あまりにきつそうなので結局引っ張り出すことに。。。親牛も限界。寝た状態で引っ張り出した。
小さな雌子牛だった。

記録が途切れたことなんて正直どうでもいい。
1年7ヶ月の8割はたまたまだ。

死なせないなんて傲慢な言葉だと思う。
それでもまた今日から死なせない日々を重ねていこうと思う。

また今日も新しい命が生まれた。


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田中 一馬
1978年生まれ。兵庫県三田市出身。田中畜産代表。小さい頃から動物が大好きで北海道酪農学園大学へ入学。在学中に畜産の魅力に目覚め、大学院を休学して2年間畜産農家で住み込みの研修に入る。2002年に独立して田中畜産を設立。但馬牛の子牛生産をメインに、牛の蹄を切る削蹄師として全国の牛の蹄をサポートをしている。2008年に精肉部門を立ち上げ、自家産の但馬牛で放牧牛肉の生産と販売に挑戦中。