命に向き合うということ

こんばんは。
田中畜産の田中一馬です。

牛という生き物を飼う仕事をしていると、「命と向き合う素晴らしい仕事ですね!」といったメッセージをいただくことがとっても多い。
評価頂きありがたいんだけど、そもそも命と向き合うってどういうことなんだろうか?

生き物を飼う仕事である以上、死に直面することは多い。
それは病気や流産という場合もあるし、屠畜といったケースもある。

牛が死ぬところに触れるから、命と向き合うってことなんだろうか?
僕はちょっと違うと思っている。

今日のフェイスブックでこういう投稿をした。

おはようございます。
牛舎から外に出ると雪が眩しいですね!
好きな牛飼いを仕事にしている僕ですが、毎朝牛舎に入る時は緊張します。
病気の牛なんていなくても、牛飼いが順調であっても。
「生まれたばかりの子牛が死んでいないだろうか。。。」
「早産で繋がれたまま生まれてきて、冷たく横たわっていないだろうか。。。」色々考えてしまう。
朝牛舎に入って最後の牛を見るまでは不安や恐怖がわき出てきます。
牛を擬人化して分かったつもりになることは簡単です。
だけどもそれでは牛の能力を生かす事も、牛を健康に飼うことも、牛を助けることもできません。
牛のことは分からない。
わからないから不安になる。
だけども毎日毎日牛を見て、分からない牛を分かろうとする。
それこそが牛飼いの楽しさなんだと思います。

僕はこれこそが命と向き合うってことなんだと思っている。
命なんてのはそこらじゅうにある。
コンビニですれ違う人だって、自分の皮膚についている何億の微生物だって、目の前の食材だって、僕の履いている革靴も、そもそも自分自身ですらも命だ。
だから【ただ生き物を飼っている】ということだけで、命と向き合っているということとは少し違うって思う。

向き合うということは「理解しようとすること」なんだと思う。

死を体験することが命に向きあっているということではない。
日常で死などありふれている。
血を吸った蚊を叩くのと牛を屠畜するのは「死」という点では違いなんてない。
あるとすれば人間にとって意味があるかどうかの違い。
命と向き合うとはまた別の話だ。

僕は牛飼いは命に向き合う仕事だと思っている。
それは会話もできない牛という動物を理解しようとすることなしに、牛飼いは成り立たない仕事だからだ。
牛のことがわからないと牛は死ぬ。
考えて考えて考えても分かんない。
それでも分かりたい。
これが一生続く。

だから屠畜という形で牛の命を絶とうとも、感謝をすれども後悔などない。
一方で途中で事故や病気で死んでしまった命には後悔しか残らない。
確かにお金が絡むということもある。
だけどそれ以上に、理解しきれなかった、対応しきれなかった、力が足りなかった、その牛に向き合いきれなかったことへの自責の念が強い。

この牛は今どういった状態なんだろうか?
健康だろうが病気だろうが関係なく、分かからないからこそ牛のことが知りたい。

命に向き合うのは牛飼いだけではない、職業なんて関係ない。
自分自身でも配偶者でも子供でも友人でもペットでも、血を吸う蚊でも。
相手を理解しようとした時点でそれは命に向き合っているということなんだと思う。

幸いなことに僕らの仕事は向き合わないことには成り立たない仕事。
向き合うからしんどいこともある。
だけど、それこそが魅力なんだなって思うんです。

もちろん、お肉販売でお客様と向き合うことも命と向き合うってことなんだよね。

今日は誰と向き合いましたか?

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田中 一馬
1978年生まれ。兵庫県三田市出身。田中畜産代表。小さい頃から動物が大好きで北海道酪農学園大学へ入学。在学中に畜産の魅力に目覚め、大学院を休学して2年間畜産農家で住み込みの研修に入る。2002年に独立して田中畜産を設立。但馬牛の子牛生産をメインに、牛の蹄を切る削蹄師として全国の牛の蹄をサポートをしている。2008年に精肉部門を立ち上げ、自家産の但馬牛で放牧牛肉の生産と販売に挑戦中。